公開時価格 |
100,000,000円 |
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販売総枠数 |
1,000枠 |
市場参考価格 | 100,000,000円 |
100,000 円/枠 | (次回価格改定 2024年12月1日) |
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市場参考価格 | 100,000,000円 |
100,000 円/枠 | (次回価格改定 2024年12月1日) |
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エンジン:水冷60度V型12気筒DOHC48バルブ
最高出力:455馬力/7000rpm
【ランボルギーニの救世主。カウンタック(Countach)とは】
ミウラのデザインも手掛けたカーデザイナーの巨匠マルチェロ・ガンディーニとチーフ・エンジニアだったパオロ・スタンツァーニの設計から生まれた、ランボルギーニ史上伝説のモデルの一つ。1971年ジュネーブ・モーターショーで、後のカウンタックと呼ばれるプロトタイプ「LP500」の発表以来カウンタックの人気は衰えることなく、さらには1980年代に経済的苦境に立たされたランボルギーニを救ったスポーツカーである。
カウンタックという名前は、他のランボルギーニの闘牛や牧場の名前に由来したモデルとは違い、イタリア・ピエモンテ州の方言の「Coon-tach(クンタッチ)」という、「ワオ!」や「素晴らしい!」といった驚きと感嘆を表す一言に由来している。当時プロトタイプの製造作業に追われていた時に、ランボルギーニとベルトーネ(トリノに拠点を置く自動車関連企業)の両社間でストライキが勃発。製造拠点をベルトーネ本社近郊の納屋に移して作業を再開したところ、近所に住む農夫が納屋にあったプロトタイプを見て発した一言が「クンタッチ」だったところから名付けられた。
カウンタックのノーズからテールパネルまで途切れのない一本の曲線でデザインされた、その優美な楔型のボディラインの先駆けとされるのが、1968年製の「アルファロメオ・カラボ」のコンセプトカーである。同車もガンディーニがデザインを手掛けていたことから、カウンタックはスーパーカーの歴史を追随するモデルといえる。2mに及ぶワイドな車幅と1.06mという低い車高、縦になびくカーブライン、エアロダイナミックなデザイン、リアのライティングの組み方や六角形のドアの形状など、随所に職人技が光る。なかでも最も特徴的なのが、フロントに取り付けられた上下開閉式のドアである。まるで昆虫の翅を彷彿させるこのデザインは、アルファロメオ・カラボの名前の由来となった「Carabo」(イタリア語でオサムシという昆虫を指す)から引き継がれたもの。その独創性からアルファベットの頭文字を取って「LSD」(ランボルギーニ・スタイル・ドア)とも称されるデザインは、そのデザイン性だけでなく狭い駐車スペースでも楽に出入りができるという機能性も併せ持っている。
ボディの奇跡的な形状は、チューブラーフレームにアルミパネルを貼り付けることによって成り立っている。膨大な費用はかかるが、この手法のおかげで軽量でありながら頑丈なフレームを生み出すことが可能となった。ボディ下部はファイバーグラス製で、ヘッドライトは開閉式でデザインされている。
プロトタイプ「LP500」にもある「LP」とは、イタリア語の「Longitudinale Posteriore」(ロンジトゥディナーレ・ポステリオーレ)」の略で、縦置きミッドシップのエンジンレイアウトを意味する。LP500では4,971ccのV12エンジンが搭載され、出力は440馬力となった。しかし、当時主要マーケットであったアメリカで新しく導入された公害防止規制のため、このプロトタイプは工業化の段階でお蔵入りに。結果として、エンジンにはミウラと同じV12エンジンの3,929ccを、ギアボックスとともに縦置きでコックピットに置かれることとなった。パワーはドライブシャフトからリアホイールに出力され、クランクシャフト下にあるエンジンブロック内にカービングされたトンネルを通してディッファレンシャルに伝達される。エンジンの改良に伴い、車名も「LP500」から「LP400」に変更された(3桁の数字は公称排気量のこと)。このエンジンとギアボックスのレイアウトにより、重心の高さは犠牲となったものの、代わりに重量が車両の中心部へと集約され、今までにない最大限のハンドリングを手に入れることが可能となった。
【飽くなき進化を追い求めた"究極"モデル】
ランボルギーニ社の25周年を記念して、のちに「究極のカウンタック」と称されるモデル「25thアニバーサリー」が1988年に登場。この記念モデルは限定台数のみの販売ながら、カウンタックのモデルの中でも最多の667台の売り上げを記録。1990年に満を持して登場した「ディアブロ」にその座を譲るまで、カウンタックの中でもベストセラーとなった。
25thアニバーサリーは記念モデルでありながらも”新しい”カウンタックとして、可能な限りの改良が施された。ただし、新たな規定に抵触することを避けるため、製造自体は排気量を5,167 ccまで拡大し、それまでのV12エンジンをさらに進化させた1985年のモデル「LP5000 QV」(QV=クアトロバルボーレの略。4バルブ化されたエンジンのこと)を踏襲して行われた。フロントスポイラーとバンパーはデザインを変更し、フロントブレーキ用の冷却ベントを追加。シルには1988年クアトロバルボーレ後期モデルで既に見られたようなリアブレーキ用の冷却ストリークが取り付けられた。リアウィングのスクープのデザインはさらに肩部分に組み込まれる形になり、新しくフードが付いたエンジンを冷やすにもより効果的になった。
新しいパネルとフロントリッドのほとんどは、「エヴォルツィオーネ」(カウンタックの後継車の複数の技術をテストするために、1987年に製造されたプロトタイプ車)に使用された複合材料で作られた。リアライトはアメリカ仕様のクアトロバルボーレと同型となり、リアバンパーもボディに組み込まれ、さらには、黒い巨大なフロントバンパーも取り除かれることになったが、アメリカ仕様車には引き続き車両と同色の塗装が施される形で踏襲された。
スペースフレームはそのまま継承されたが、P7Rに代わってマルチピースのOZホイールには新しいピレリのタイヤ「P Zero」が装着され、サスペンションにも若干の変更が加えられた。チャンピオンレーシング・ドライバーであるサンドロ・ムナーリの指導のもと行われたこれらの改良は、25thアニバーサリーをより安定かつ安全なものとし、従来のカウンタックとはまったく異なる車へと進化を遂げた。
インテリアもシートはより幅広に、背もたれとともに電動調節機能が搭載され、ドアのデザインも変更された。さらにサイドウィンドウは電動式化されエアコンも標準装備に。その他のユニークなオプションとして、スペースを確保するためにさらに薄手のスポーツシートを取り付けるという案もあったが、結局車内は手狭のままとなった。こういった様々な改良を加えることによって、25thアニバーサリーは最終進化を遂げた。
本車両は1989年に誕生。希少価値と優秀さを兼ね備えた血統付きのモデルとして自動車史にも名を連ねている。本車両は200から400kmほどで日本へと輸入されたもので、オドメーターが示す走行距離はわずか約3,400km。この走行距離はベストなコンディションを保つために最適な距離のみを重ねたものとなっている。
他に類を見ないほど優れたコンディションももちろんだが、本車両において一番の特徴は「オリジナル」であること。艶やかな光沢を放つ塗装は、塗り直した箇所がなく当時のオリジナルのまま。また、同じく内装も手を加えられたところがなく、タイヤまでもが工場出荷時からオリジナルの状態を保っている。ランボルギーニの珠玉の一台でもある本車両はスーパーカーとしてだけではなく、芸術性の象徴として、また夢を現実化したシンボルとしてその存在感を発揮している。
Lamborghini
ランボルギーニ
「We are not supercars, We are Lamborghini」
ランボルギーニ(Automobili Lamborghini S.p.A.)とは、イタリアのサンターガタ・ボロニェーゼに本社を置くスーパースポーツカーとSUVメーカー。創始者は北イタリア出身のフェルッチオ・ランボルギーニ(1916-1993)。
幼い頃から機械が好きだったフェルッチオは、第二次世界大戦後の1946年、当時33歳でイタリアへ帰還。戦後の復興期においてイタリアが農業と工業に注力するだろうと軍放出品であったトラックに目を付け、1949年頃にランボルギーニ・トラットーリ社を設立。軍放出品のトラックを元に小型トラクターを改造し一般市民向けに販売したところ、フェルッチオの読みは当たり、トラクターの需要は拡大した。トラクター事業の成功を受けて、1959年にはランボルギーニ・ブルッチャトーリ社を設立し、ボイラーやエアコンの製造事業にも参入。1960年代に入ると、イタリアは「奇跡の経済」と呼ばれる高度成長期へ。フェルッチオは実業家として手腕を発揮し、二つの事業の成功を収めた。
富を得たフェルッチオはスーパーカーをコレクションし始める。後に成功者の証であるフェラーリ・GTのオーナーとなるも、クラッチの故障が続いた。何度修理しても直らないことに不満を抱いたフェルッチオは、創設者のエンツォ・フェラーリに直接抗議しに行ったが門前払いに。そのことに腹を立てたフェルッチオは、フェラーリに対抗するスポーツカーを作ると宣言し自動車ビジネスに乗り出した。という話が残されているが、これはフェルッチオが宣伝のために捏造した作り話である。
実際のところは、修理のためにフェラーリから取り寄せたクラッチが自社のトラクターと同じザックス製だったこと、そのクラッチの仕入れ値価格と取り寄せた価格の歴然とした差、つまり利益率に、ビジネスの勘が鋭いフェルッチオは再び目を付けたのだ。そして1963年5月「アウトモビリ・フェルッチオ・ランボルギーニ」を設立し、その歴史に幕を上げる。1964年には初のスポーツカーである350GTを発表。それから1968年までに400GT、ミウラ、エスパーダ、イスレロを。1971年にはランボルギーニのマスターピースの一つであるカウンタックが誕生し、ランボルギーニはその地位を世界市場で確立した。翌年フェルッチオは自動車業界から引退するも、「完璧な車とはなにか」を追求する姿勢は引き継がれ、2023年に創業60年を迎えたランボルギーニは、半世紀以上に渡って数々のドリームカーを生み出し続けている。
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