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公開時価格 |
300,000,000円 |
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販売総枠数 |
3,000枠 |
市場参考価格 | 300,000,000円 |
100,000 円/枠 | (次回価格改定 2024年12月1日) |
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エンジン:水冷60°度V型12気筒DOHC24バルブ
最高出力:350馬力/7000rpm
Photo Book MIURA #3171
https://information.and-owners.jp/photobookMIURA_3171
誰もが唸る最高の一台、希少なライトウェイトモデル
【ランボルギーニの最高傑作。ミウラ P400(Miura P400)とは】
1966年にジュネーブ・モーターショーで発表。横置きミッドシップのV12エンジンを備え、公式発表された最高速度は300km/hを誇る世界最速のスーパーカーとして、スポーツカー分野に新たな基準を打ち立てたランボルギーニの最高傑作モデルである。ミウラという名前は、ランボルギーニの別モデル「イスレロ」(Islero)の由来となった牛を飼育していた牧場名から名付けられた。当初、創始者のフェルッチオはミウラを30台程度の限定車と想定していたが、2シータークーペボディや流れるような曲線的な車体、特徴的なポップアップ式ヘッドライトなど洗練されたデザインが注目を集め、100件以上のオーダーが殺到。1967年に量産体制を整え、翌年にミウラP400S、1971年にミウラP400SVを発表した。
【すべてのオーナーに愛された、#3171の旅路】
ミウラ専門家たちによる緻密なレストア作業と、オリジナルのシャシーとボディ、かつマッチングナンバーであるV12エンジンによって、本車両は長年オファーされているミウラの中でも最高の一台。メーカーのプロダクションシートと工場での記録に残された本車両のシャシーナンバーは3171、エンジンナンバーは1415。これは、スーパーカーのスペシャリストであるジョー・サッキー著『The Lamborghini Miura Bible』(2008)の内容とも完全に一致する。ミウラP400において、細身の軽量シャシーフレームが採用されているのは初期型の124台のみ。本車両#3171はその124台中の第80号であり、博識のコレクターたちも憧れを抱く希少なライトウェイトモデルである。
ちなみに、ミウラの生みの親であるエンジニアのジャンパオロ・ダラーラが所有する#3165も、本車両と同様のホワイトのボディカラー、ブラックの内装の初期型のライトウェイトモデルである。同時期に生産された両車両はランボルギーニ・ポロストリコ(ランボルギーニでヒストリックカーのレストアやアーカイブを扱う部門)のスペシャリストによって、丁寧にレストアされた。
本車両は、1967年10月18日に製造され、ベントレー・パリとして事業展開するヴォイチュール=パリ・モンソー(Voitures-Paris Monceau)に納車。1980年代はヨーロッパ大陸に留まり、その後はイギリスへ渡ったと推測されている。1989年までにバーミンガムのジョン・ブリットンが本車両を購入。ランドローバー・ワークスをはじめ、スコット・ガレージやRSパネルなど、クラシックカーのスペシャリストたちによって外装色はホワイトから印象的なオレンジ色へ。また、内装は、世界屈指の車両内装のスペシャリストとして高い評価を得ているサフォーク&ターリーによって、ブラックから鮮やかなフレンチブルーのコンビネーションに張り替えられるという変貌を遂げた歴史がある。
さらに、コンクールで数々の賞を受賞しているイギリスのミウラ・スペシャリスト、コリン・クラークによって、オリジナルのランボルギーニ診断装置を用いたエンジンのリフレッシュと緻密な整備も行われた。ヘッドのマシン研磨、クランクシャフトにも亀裂テストが実施され、クラッチとウェーバーのキャブレター、ギアボックスがランボルギーニのスペシャリストによってリビルトされた。こうしておよそ15年に及ぶ熱心な品質維持の努力が、ファクトリーとのやり取りと請求書に裏付けられている。また、ブリットンは自身が所有していたフェラーリ400の車両登録をミウラへと移し、以来、本車両には「400NO」というイギリスのプレートが付属しており、本車両に注ぎ込まれた深い愛情を垣間見ることができる。
2004年、本車両はイギリスのクリーブランド在住のマーク・バクストレムへ売却された。残された請求書でも確認できるように、品質の維持と向上に努めていたバクストレムはクラークにメンテナンスを依頼し、2009年9月まで本車両を所有していた。その後スペインのコレクターの手に渡り、2012年のオートベロ・バルセロナのコンクール・デレガンスに出展。当時オレンジの外装とブルーのインテリア、ゴールドのホイールを纏っていた本車両は、カーデザイナーのヌッチオ・ベルトーネの未亡人であるリリ・ベルトーネと共に登場しフォトセッションが行われた。彼女はミウラを選んだ理由として「ヌッチオが愛した車だから」と語り、この出来事は後に著名な自動車誌である『Car Magazine』にも掲載された。
2017年にはフランスに拠点を置く著名なコレクターが購入し、熱心なケアがされてきた記録が残されている。専門家による一連の鑑定も行われ、バルセロナのオート・ストリカ(クラシックカーの販売とレストア事業を展開する企業)にて数箇所のマイナーレベルの補修が行われるなどの末、本車両は再びオートベロ・バルセロナに出展された。クラシックカー/コレクションカー業界における最大手オークショネアの一つであるRMサザビーズのプライベートセールス部門は、本車両について次のように高く評価している。
「未だ輝きを失うことのないこの初期型ミウラは、格式あるコンクール・デレガンスやイベント、イタリアのカーショーでの展示に理想的だ。あるいは抜群に調整されたV12エンジンの猛々しいパフォーマンスと、独特なエキゾーストノートを堪能するためにドライブに出るのもいいだろう。レストアの請求書、前オーナーによるメーカーとのやり取り、イギリスの車両テスト証書と登録書、2017年に行われたフランスでの鑑定書などが文書化されたこの素晴らしいミウラは、どんなコレクションにも華を添える見事な一台であり、スーパーカーファンを唸らせるのは間違いないだろう」
2020年12月、日本の新しいオーナーの依頼によりさらなるコンディション向上を目指して、ランボルギーニ・サービスでの徹底したオリジナルへの復元作業が開始された。ランボルギーニ・ポロストリコの創設メンバーでランボルギーニの専門家マッシモ・ピッコの監修のもと、イタリアのモデナにあるミラージュ・ボディワークで総レストア作業が行われた。ボディの塗装も全て剥がされ、1967年の工場出荷当時と同一のオリジナルのボディ色であるビアンコ・ポロ・パーク(ホワイト)を特別に調合し、再塗装。インテリアも、ランボルギーニの純正素材と加工を踏襲したオリジナルカラーのネロ(ブラック)で再構築。ステッチワークを含め、オリジナルに忠実な素材と入念な仕上げが施され、レポートに記載されているコンディションと一致する完全なオリジナル性が復元された。
老朽化したパーツは、ランボルギーニが指定する希少なオリジナルの新品パーツへと交換され、サスペンションもオーバーホールとリフレッシュを実施。すべての電気系統システムは新たに配線が引き直され、キャブレター、エンジン、シャシー、およびブレーキに至るまですべてがレストアされており、エンジンは緻密な調整が行われた。ボルトとナットのオリジナルへの交換を含むすべてのレストア作業は2023年3月に完了。現代の道路事情に適合させるため、ミウラP400S、ミウラP400SVにも導入されたパーツを保持した上で入念なドライブテストが何度も実施されたのち、本車両は最高のコンディションとなった。
完璧に仕上げられた本車両は、2022年10月のローマ国際映画祭にて、映画『LAMBORGHINI the man behind the legend』のオープニングパレードを飾る車両に抜擢。歴代のオーナーたちとスペシャリストによる愛情と努力で現代に蘇った希少な初期型モデルであるミウラP400 #3171は、大勢の観衆が見守る歴史的なパレードで出演俳優陣を華やかにエスコートし、ワールドプレミアを華麗に盛り上げた。
Lamborghini
ランボルギーニ
「We are not supercars, We are Lamborghini」
ランボルギーニ(Automobili Lamborghini S.p.A.)とは、イタリアのサンターガタ・ボロニェーゼに本社を置くスーパースポーツカーとSUVメーカー。創始者は北イタリア出身のフェルッチオ・ランボルギーニ(1916-1993)。
幼い頃から機械が好きだったフェルッチオは、第二次世界大戦後の1946年、当時33歳でイタリアへ帰還。戦後の復興期においてイタリアが農業と工業に注力するだろうと軍放出品であったトラックに目を付け、1949年頃にランボルギーニ・トラットーリ社を設立。軍放出品のトラックを元に小型トラクターを改造し一般市民向けに販売したところ、フェルッチオの読みは当たり、トラクターの需要は拡大した。トラクター事業の成功を受けて、1959年にはランボルギーニ・ブルッチャトーリ社を設立し、ボイラーやエアコンの製造事業にも参入。1960年代に入ると、イタリアは「奇跡の経済」と呼ばれる高度成長期へ。フェルッチオは実業家として手腕を発揮し、二つの事業の成功を収めた。
富を得たフェルッチオはスーパーカーをコレクションし始める。後に成功者の証であるフェラーリ・GTのオーナーとなるも、クラッチの故障が続いた。何度修理しても直らないことに不満を抱いたフェルッチオは、創設者のエンツォ・フェラーリに直接抗議しに行ったが門前払いに。そのことに腹を立てたフェルッチオは、フェラーリに対抗するスポーツカーを作ると宣言し自動車ビジネスに乗り出した。という話が残されているが、これはフェルッチオが宣伝のために捏造した作り話である。
実際のところは、修理のためにフェラーリから取り寄せたクラッチが自社のトラクターと同じザックス製だったこと、そのクラッチの仕入れ値価格と取り寄せた価格の歴然とした差、つまり利益率に、ビジネスの勘が鋭いフェルッチオは再び目を付けたのだ。そして1963年5月「アウトモビリ・フェルッチオ・ランボルギーニ」を設立し、その歴史に幕を上げる。1964年には初のスポーツカーである350GTを発表。それから1968年までに400GT、ミウラ、エスパーダ、イスレロを。1971年にはランボルギーニのマスターピースの一つであるカウンタックが誕生し、ランボルギーニはその地位を世界市場で確立した。翌年フェルッチオは自動車業界から引退するも、「完璧な車とはなにか」を追求する姿勢は引き継がれ、2023年に創業60年を迎えたランボルギーニは、半世紀以上に渡って数々のドリームカーを生み出し続けている。
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