国立新美術館の個展で話題になったダミアン・ハーストの「桜」シリーズ

ダミアン・ハーストの「桜」シリーズは、2018年から3年かけて107点が制作された、壮大な連作だ。

ハーストが「桜」をモチーフに選んだきっかけは、2017年に取り組んでいた「ベール・ペインティング」という、無数のドットが色彩の幕（ベール）のように見える絵画シリーズの制作の中で、ドットを重ねて奥行きを出そうとしているうちに、描いているものが庭や木のように見えはじめ、小さい頃に母親が桜の絵を描いているのを見て、油絵の具にあこがれていたことを思い出したことがきっかけだそう。そして、ただ木を描くだけでは単純すぎるが、桜であれば、抽象的であることと具象的であることを両立できるのではないか、抽象と具象、ふたつの世界を行き来する手段として思いついたのが、「桜を描くこと」だった。また、ハーストは制作を通して生と死を考察し続けており、生死や再生の象徴としてとらえられてきた桜は、ハーストにうってつけのモチーフだった。

「桜」シリーズでは、モチーフだけでなく19世紀後半から20世紀の西洋美術史に名を残す画家たちの影響が色濃く感じられる描き方にも注目したい。
異なる色のドットを重ねた桜の花の表現は、クロード・モネやピエール＝オーギュスト・ルノワールら印象派が採用した筆触分割を想起させ、ポスト印象派の精神に通じるものがあり、ゴッホの《花咲くアーモンドの木の枝》（1890年）からの直接的な影響も指摘されている。また、「桜」の大画面に飛び散る絵の具からはアーティストの身体の動きが感じられ、ジャクソン・ポロックの「アクション・ペインティング」にもつながっている。制作風景を映した動画で、ハーストはキャンバスの前に立って絵の具を投げつけ、「ポロックをやった」と自ら語ってもいる。さらに、鑑賞者を包み込むような没入感は、マーク・ロスコの「カラー・フィールド・ペインティング」に通じるものがあり、「桜」シリーズは19世紀後半以降の偉大な芸術にオマージュを捧げた、アートの集大成とも呼ぶべき連作である。

本作品が含まれる、120.0 x 96.0 cm のプリント作品8点組の《The Virtues》は、日本語で「美徳」を意味し、新渡戸稲造が唱えた「武士道の八徳」から引用されている。
「武士道の八徳」は、Justice（正義）、Courage（勇気）、Mercy（慈悲）、Politeness（礼儀）、Honesty（誠実）、Honour（名誉）、Loyalty（忠誠）、Control（統制)という日本人の精神を支える8つの徳を表し、本作品はその中のHonesty（誠実）を象徴する作品となっている。